意味がない会議をなくそうと頑張って行き着いたのが、配属先改革の冊子作成でした
最近、ちょっとした葛藤がある。
同じことの堂々巡りをしている、もしくは全員が参加する必要のない会議が本当に多いのだが、そういうものに参加しなくなったことだ。
というか、基本的にぼくの同僚は、会議に参加すれば仕事をしないで済むためか、仲良くみんなで参加してる。
たとえば、
ぼくのプロジェクトには2人大学生が社会実習のような形で働いている。(大学生だけど、コロンビアではこういう実習生をほかの何年もその仕事を経験してきた人たちと同等に扱うので、仕事を1週間後くらいから普通に一人前に扱い始める。配属先やプロジェクトや仕事について全く知らないのに。。。)
ときどき、彼らの指導教官の女性の先生がやってきて、プロジェクトチームにおける彼らの受け入れ方や彼らが協力できそうなこと、プロジェクト内容やこれまでの進捗状況の確認をする。保護者みたいなものだ。(協力隊の調整員さんたちも、この先生と同じ立場だが、活動や配属先のことには干渉してこない。)
この手の類いの会議に、ぼくがパソコンに向かって仕事をしていても、必ず声をかけられてくれるので参加するのだが、基本的に話が進まない。「30分で終わるから」と言われて、結局2時間くらい時間を使う。
話が進まないというのは正しくない。
同僚たちからすると「結論まで行き着いている」ようだが、客観的に冷静に見てる僕からすると「全く結論に行き着いていない」というのが正しい。だから、会議が終わると、彼らは満足している雰囲気になっているが、根本的にはなんの結論も提案も出ていないので、また次の会議で同じことが繰り返される。もしくは、きちんとした合意がなされないまま、タイムリミットが来てしまい、見切り発車でやり始め、小さい成功で大満足して終わる。このパターン。
「計画」という言葉はなかなか難しく、日本人の僕たちが放つ「計画する」とコロンビア人が言う「計画をたてた」の深みが全く違う。この認識の違いは、なかなか根が深い思慮深さの違いである。
話を戻そう
すでに3度、この集まりを開いているのだが、先生は「プロジェクトの進め方やこれまでのプロジェクト成果のレポートを見せてほしい」と暗に伝えているのに、ぼくの配属先は基本的にこれまでのプロジェクトについての情報をレポートにしていない(文章化していない)で、現代なのに口頭伝言に頼りっきりで仕事をしてるので、なにも提出できない。
だから、毎回毎回先生から似たような質問がプロジェクトチームに投げかけられる。
会議を行う前に、そのようなレポートなどを共有していれば、「どういう活動をしてるんですか?」みたいな表面的な内容のない話をせずに済むのに、毎回そこから話が始まり、哲学的なコンセプトを説明している。そして、具体的な内容や成果、インパクトについてではなく、コンセプトについてしか話さないので、話は膨らみ、脱線し、笑い話的な談笑になって会議が終わる。
ぼくがお客様気質で活動しているから、というわけではなく、基本的に結論が出ず、具体的な内容に触れない(正しく言うと、「具体的な内容に行き着くことができない」)まま、終わる。
毎回、肩透かしを食らった気分になる。だから、”会議”が好きではない。
2時間の価値 とか、時間対効果といった概念はない。←これについて、配属先用に本を作ってる。
2人で話を進めることのできることを、メンバー全員6人が集まるなかで始める。ほかの4人は明らかに必要ない。もしくは、2人が決めたあとに、それを説明するか、文章に簡単にまとめればそれで問題ないはずだ。
毎週の定期会議もあるんだか、ないんだかわからないし、「9時から」と言われたものが10時半開始になるのは普通。その1時間半の誤差は仕事してるからいいんだが、こちらは9時からだと思って1日の仕事の計画を頭のなかに描いているから、かなり調子が狂う。
そこに、2時間〜4時間かけても何も結論や何も生み出さない集まりを行われた日にはもう………
ぼくは自分に課した、数テーマの冊子の作成という仕事が職場にあって、それに取り組んでいることは同僚に伝えてある。
基本的に職場にいるときは、周りで同僚たちが仕事に集中せず(集中できず)に大きな声で話しているなかでも、パソコンをカタカタしている。
同僚たちは私情を仕事に持ち込んで働いている結果、同僚同士の仕事のやり方の反りが合わず、プロジェクトメンバーの入れ替わり作業が行われている。その新しいメンバーの受け入れなんかも、プロジェクトメンバー全員で集まりたがる。
プロジェクトの概要ややってきたこと、現状と今後の具体的な計画などは、レポートにまとめて、パッと情報共有できるようにしておくことが当然だと個人的には思ってるので、「また、不必要な集まりをしてる」と密かに思ってる。それを渡して、1日読ませてから集まれば、大概の口頭説明は不要になる。
脱線ばかりの3時間の集まりよりも、A4レポート5枚10枚のほうが圧倒的に情報量が多いし、全体を把握しやすいと思う。
この半年間以上ずっと同じことを彼らはやっているので、さすがに数度指摘してみたが、やはりそういう概念を持っていないためかなかなか変わらない。最初は意気込んでワードでレポートを書いたり、計画をみんなにシェアしていたりしていたが、仕事でもワッツアップ(日本におけるLINEのようなSNS)でやり取りするので、パソコンを見る習慣がない。「農村に出かけてるから、メールなんか見れないよ(見る気はないよ)」という丁度いい言い訳があるので、なおのことを見ない。
同僚の多くは、10年20年近くこの職場で働いているのだが、その人たちもみんなこんな感じで、集まりと言う名の「生産性の低い集まり」を行い続けてきたようだ。
ぼくは最近、同僚たちがこのやり方で何十年も働いてきて、そしてこれからも少なくとも数年以上はこのやり方で働き続けること に称賛に近い驚きを感じている。
日本では「会議から学べ」、「何かしら学べることがあるはずだ」と考えるし、限られた時間のなかで、実際何かしら有益な情報やいずれかの結論に行き着く。もし行き着かないのであれば、「この集まりって意味ないよな。。」とほかのひとと陰で話すだろう。
でも、ココではそうではない。集まりに参加することがスペイン語の勉強にはなっても、毎日午前中の仕事の時間を奪われていたら、ぼくがコロンビアにいる間に完成させたい文章書きも終わりやしない。
これはある種のジレンマを生む。
ぼくもこころの中では、「どんな集まりだろうと、内容把握のために参加するべきなのだろう」と考えているからだ。
しかし、実際に参加してみると、同じことの繰り返しだったり、ちょっとした話が合わなくて「もういい、私は知らないから!」みたいな展開になることも多い。特別、何かしらの決定事項が生まれるわけでもなく、決定するための事項に少し触れた程度で彼らは話した気になって、集まりが終わる。実際には何も決まっていないのにもかかわらず、である。
朝9時から始めた会議がぐだーっと続き、お昼の時間をまたぐと、午後には「それでいいんじゃね?」って感じで決定に行き着く。これを「計画によって立てられたプラン」と彼らは自信を持ってみなす。
こういうのは、メンタリティや考え方の違いなのだろう。
仕事や仕事時間に対する考え方が大きく違うので、彼らの仕事の進め方に合わせると自分の仕事に費やすことのできる時間がかなり減ってしまう。
そのため、集まりのときは、ぼく自身が参加する必要があると判断した、もしくは同僚に判断されたときのみだけ集まりに参加するようにしてる。
仕事の時間、ぼくはきっちりと働きたいので、仕事オーラ全開で作業してる。そうすると、ほとんど話しかけられることがない。
「必要があれば、呼んでくれ」そんな感じだ。
こういう仕事に対する態度をとっていると、「ジュンペイは仕事に集中していて、私たちとコミュニケーションを取りたくないんだ」と同僚たちは感じるようである。話しながら、50%の集中力で仕事をすることがぼくの周りでは普通のようだ。
だから、コロンビア人と一緒に深くかかわって働くのはかなり難しい。
仕事や集まりに対する生産性の認識が違いすぎる。
仕事の時間は仕事に集中するという決まりがないので、ぼくもそのコロンビアルールに則って、仕事始めにコーヒーを飲みながらコロンビアのニュースを読んでたりする。
コロンビアのことは大好きだし、コロンビア人の明るさも性格も優しさも人も好き。
ぼくが見るからに外国人だということもあり、常に危険性に対して気を付けていなくてはいけないので気疲れはあるが、実際は安全で危険を感じたことはない。
お金をよく使い、計画を持って貯金する習慣がないので、ビジネスチャンスも多いだろう。
資源もとてつもなく多く、外国人を受け入れる寛容性もある。
でも、コロンビア人の組織力がない点。ただその一点を付け込まれる。
僕たち”外国人”は、そのコロンビア人の弱みをすぐに理解できるし、そこに付け込む能力と戦略を兼ね備えている。
だから、多国籍企業がコロンビアで蹂躙していて、コロンビアには工場などの仕事を生み出す国内産業がない。資源や人手はたくさんあるのに、自分たちで造れるものでさえも外国から買っているのが現状だ。
そして、この現状を「多国籍企業が自国の資源を盗んでいる」と表面だけを見て嘆き、それに対して脆弱な組織力とその運営力で対抗するので、結局機能しない。家族といれば幸せを感じるから、家族や友人よりも外の世界のことは、基本的に不満を言うだけで実際に行動に移すことはない。
すべて政府や役場が悪い、となる。
僕はコロンビア人とのビジネスチャンスや国際協力の方法を模索しているから、コロンビア人側に寄り添って物事を考えている。
ぼくがフェアトレードなどをやるときは、彼らから買い叩くつもりも毛頭ない。
協力隊の一つの難しさは、ほとんどの場合「多くの現地人のなかに1人で飛び込んでいる」ことだろう。4人の日本人がいれば創り出せる波があっても、1人では一滴のしずくとして終わる。多くの隊員は、そのしずくから波を起こすことができずに終わることが多いのではないだろうか。
そんなぼくも、ぼくが配属先で同僚のメンタリティーや習慣に対してインパクトを起こすことができたのは、配属先のゴミを同僚たちがミミズコンポストでリサイクルするようになったことと15時のおやつでコカ・コーラを飲むようになったくらいだと思う。
プロジェクトの進め方や農家さんと一緒に働く際のアイディア、答えやすいアンケートの作成や農家訪問時の農家さんの進捗状況確認用紙の作成などなど、プロジェクトチーム内で自分が協力できる、自分の専門に近いことではいくつかインパクトを残すことはできている。
でも、職場全体(20~30人)というのは難しい。少なくとも、ぼくの性格とぼくの活動、ぼくの活動スタンスからは難しい。
基本的に活動のほとんどを職場で過ごし、がんがん30人の同僚を集めて指摘できたり、アドバイスできるような積極性をもった協力隊員なら可能だと思う。
僕の配属先はマーケティングの協力隊員の要請を出しているので、次の隊員の方に譲りたい。
協力隊を数度にわたって同じ配属先に送ることは、とても大切だと思う。協力隊が働く基盤ができていて、2年間その場所で働いていた日本人目線で取り組むべき課題が明らかになっている。
交替で派遣される隊員は必ず前の隊員さんに連絡して、情報を共有してもらうべきだ。そうでなければ、新しく派遣された人がまた2年間をかけて0から積み上げなくてはいけなくなる。自分のためにも、現地の人のためにも、きちんと内情を理解しておくことをお勧めしたい。
それでも、
課題に気付いた以上、そのポテンシャルを高めるべく、すこしでも協力したい。それが協力隊だろう。
問題はどのように取り組むかだ。課題に気付くことは決して難しいことではない。
それに気づいた後、
なぜそうなっているのか、
どうしてそういう現状に行き着いているのか、
何がその現状に影響を与えているのか、
彼らはその現状をどう認識し、どうしたいと思っているのか、
これらを理解したうえで、相手をダメージを与えすぎないでうまく促す。
自分が思い描くビジョンを提示し、それに合意が得られたら、簡単なことから少しずつ彼らに変えていってもらう。
何かが変わったら、ソレを誉めるのではなく、ソレを変えたことで間接的に変わった部分を指摘する。
(女の人が美容院で髪の毛を切ってもらったとしたら、「美容院行ってきたんだ、偉いね」とは言わないだろう。「髪、似合ってるよ」「髪型変えたんだね」だろう)
その変化を促したのであれば、その変化に対してはきちんと観察して指摘するべきだろう。
だから、ぼくはぼくなりに、レポートにまとめて、配属先改革の冊子をつくってる。
口頭で伝えても忘れられちゃうから、冊子にして形に残すようにすることが狙いだ。そうすれば、過不足なく伝えられるし、体系的に伝えることができる。
こういうのは、野菜栽培隊員の仕事ではないし、活動要請の紹介文に書かれていることではない。でも、気づいてしまったから、自分なりに協力してみる。ぼくが大切にしている貢献感というやつだ。
そのレポートが役に立つかどうかは、それを読んだ人が決めることだ。
ぼくは「彼らに少しでも協力したい」という気持ちでやっている。そして、この協力隊の2年間だけでその関係を終わらせるつもりもない。
ぼくとコロンビア人との付き合いは、始まって1年10か月しかたっていない。
これは、今後の60年近い人生のなかではほんの序章にすぎないのだから
Chao
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