自分の人生に厳しい目を向ける勇気がないのに、他人の人生を誹謗中傷しちゃダメ
何気なくインターネットニュースを読んでいると、ある記事が目に飛び込んできた。
「その厳しい目、自分自身の人生に向ける勇気ある? あるんやったらいいんですけど」
髭男爵の太った方、山田ルイ53世の言葉だった。
ぼくは匿名の世界に行ったことがない。
だから、匿名性の怖さを実感したことはない。
フェイスブックをやっているが、フェイスブックは個人名でやることが一般的。
ツイッターやインスタグラムはやったことがないのでわからないが、ツイッターというのはどうやら偽名でやっているひとが多い印象を受ける。
だから、熾烈な討論が繰り広げられることがある。
討論というよりも、ほかのひとをただ煽ったり、バカにしたり、犯罪自慢をしたりする例が後を絶たないイメージだ。
何事も良いことよりも悪いことのほうがより速く広まるから、仕方ないことなのかもしれない。
ぼくはそういうイメージを匿名性のネット世界に持っている。
匿名であることで、自分が特定されることがない。
自分が特定されることがなければ、悪さをしても自分が被害を被ることはない。
だから、好き勝手書くことができる。
知らない人を誹謗中傷してみたり、友人を誹謗中傷してみたり、仕事仲間を誹謗中傷してみたり、なかには恋人を誹謗中傷したりするひともいるから驚きだ。
匿名だからこそ吐き出せること、多いと思う。
でも、「吐き出すこと」と「人を批判すること」の性質は違う。
ネットの世界を管理して、改善していくことはなかなか難しいことだ。
改善できるのかどうかさえわからないし、改善すべきなのかどうかもわからない。
常日頃からぼくはこのように考えているので、この記事を読んだとき「おもしろいな!!」と思った。
この記事だ ⇒ 髭男爵・山田ルイ53世がネットの誹謗中傷に持論 「心に刺さる名言」と称賛の嵐
■「世間の厳しい目」に持論
地方のスーパーの余興に行ったとき、地元の高校生の「髭男爵が、きょう近所のスーパーマーケットに来る。こんなド田舎まで来るなんて、もう終わってる」というツイートを見てしまったという。
このつぶやきを見た山田は、「お前を育んでくれた地元を犠牲にしてまでね、髭男爵をディスるかと」とツッコミ。スタジオからは笑いが入るが、山田はさらにヒートアップ。
「おかしないすか、こういう感覚。『おもんない』とか『消えた』とか」と怒りをあらわに。
そして「これだけは言いたい」と声を大にして「その厳しい目、自分自身の人生に向ける勇気ある? あるんやったらいいんですけど」とカメラに向かってその男子高校生に問いかけた。
とってもおもしろい!!
特に最後の「その厳しい目、自分自身の人生に向ける勇気ある? あるんやったらいいんですけど」。
これは本当にそうに思う。
日本人は自分に厳しく、他人にも厳しい。
でも、自分に甘く、他人に優しくすることも大切だ と、ここのところ思っている。
その一方で、自分に甘いのに、人に厳しく接する人、増えた気がする。
そういうひとを「口だけ」と呼ぶし、相手に多干渉する場面をよく見かける。
自分のなかではきっとしっかりやってるつもりなのだろうが、客観的にはそうではない。
周りもそのひとがしっかりやっていないことに気付いているが、相手をしてあげるのがめんどくさいので野放しにする。
結果的に、そのひとは自己満足の世界で生きたまま、自分のことを棚に上げ、ひとに厳しく接するようになる。
若い人の場合は、ただかまってほしくて悪口を言ってみたり、相手の困った顔が見たくて誹謗中傷したりするのだろう。
その誹謗中傷、自分に返ってきたらどうする??
人に言えることは、自分ができていること。
もちろん、物語は語ろうすれば、いくらでも語ることができる。
しかし、多くの場合、最も重要なことは物語の内容ではなくて、”誰が”その物語を語るかである。
わけのわからないネットのひとが言ったことを信じるよりか、書籍の情報のほうが信頼できる気がする。
なぜなら、出版社というフィルターを通すことで、そのひとの信憑性が担保されているような気がするからだ。
だから、匿名性の情報を鵜呑みにする人は少ないと思う。
ただ単純に意見を見たいときだけ、匿名のサイトを利用する。
匿名性のインターネット。
とても便利だし、相手の顔がイメージできない分、とてもストレスフリーだ。
だからこそ、他方で難しい側面も抱えている。
誹謗中傷したい気持ち、そういう感情を持つことは悪いことではない。
ただ、実際に誹謗中傷したいとき、一度矛先を自分のほうに向けてみる必要がある。
自分がされて嫌なことを、相手にしてはいけないのだ。
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